19歳のジャニヲタ介護職員が統合失調症と診断されるまで。
ー2019・5・3、改行などの手直しー
いつも以上に独り言です。そしてバイオレンス?な表現というか文章があります。苦手な方は見なかったことに。
もし、ジャニヲタであってもそうでなくてもこの記事を読んでなんとなく思い当るところがある人、思い当たるところがある人が近くにいる人、なんでもいいです。
行動を。ひどくなる前に。そして、ストレス社会よ滅びろ。
私にとってジャニーズは楽しみであり、ご褒美です。
高校時代からバイトをし、自分で貯めたお金でチケットの振り込みをし、交通手段を確保し、グッズを買っていました。
クソDDを自覚していたので各グループのリリースや現場の振り込みが重なったときはそれこそ鬼のようにバイトをしました。
そうして手に入れたお金を使うことが快感であり、なによりのストレス発散でした。
そのスタンスは高校卒業後、介護職を選び社会人になっても変わりません。
むしろ動かせるお金が増えたことで3か月に1回程度の遠征が毎月になりました。
仕事は体力勝負。介護ど素人の私は、いわば見て覚える、やって覚えるの連続です。
目まぐるしい毎日、不規則な勤務形態、でも、月に1度東京に行って現場に入れると思えば、どうってことはなかったのです。
頑張りがいのある仕事、現場という楽しみ。貯金は定期で組んでいる3万がある。
余裕はないけど、それなりに充実した社会人生活、のはずでした。
こういう仕事柄、人の死はつきものです。
大好きだったおばあちゃんが自分の休みの間に息を引き取った。
遠征のために連休をもらったら救急搬送されて病院で亡くなった。
昨日いた人なのに、今日出勤したらいなかった。
目の前でストレッチャーで運ばれていった。
そのたびに、後悔しないように頑張ろう、頑張ろうと自分を励ましました。
仕事を初めて半年ほど、夜勤がスタートしました。
通しでなく、昼から夜中までと夜中から昼までの半分の夜勤です。任されるまでに成長した自分がうれしかった。
でも、あとから思えば、このあたりからジャニーズに一度に使う金額が増えていました。
そして、「がんばれ私」という言葉。
冗談のようなトーンでそう呟きだしたのもこのころからでした。
万年人手不足の介護業界、効率よさが求められる中で、自分で自分を励まさないと、やってられなかったのです。
でも、頑張った先には1か月待ちに待った現場がある。
羽を伸ばせるのはもうすぐそこだ、さあ頑張ろう。
気合を入れて仕事に向かっていました。このころ遠征はすべて泊りで組んでいたので、2日分の休みをもらうということは当然前後の仕事は連勤になりしんどいのです。
夜中の11時に家につき、次の日が早番で朝の7時から仕事、だなんてこともざらにありました。
でも、次からの勤務がどれだけしんどいものでも東京に行かない、現場をひとつ減らす、という選択肢はありませんでした。
ジャニーズにお金を使うこと、それが楽しみで、それがあるから正直やってられん、と思うような勤務を組まれても頑張れたのです。
でも、いつからか、ジャニーズで楽しい思いをしているのだから頑張らなくてはいけない、と思うようになっていました。
先週東京に行って楽しかったのだから残業だろうが早番だろうが、きちんと頑張るべきだ、と。
あることがきっかけ(利用者さんのことに関するので伏せますが)で夜勤前になると必ず見ていた夢がありました。
このころ、その夢をほぼ毎日見るようになっていました。
夢の内容についても伏せますが、ざっくりいうと私は夢の中でも仕事をしていました。
寝たのか、寝てないのかすら曖昧で、でも、出勤日だから仕事に行かなければ。
仕事をしなければ。来月も再来月も現場はある。
楽しいことが待っている。私ならできる。大丈夫。
通勤中、爆音で流れるジャニーズメドレーのなかで。
休憩中ひとりきりのトイレで。そう呪文のように唱えて。
笑顔を張り付けて仕事をしました。
そのころのLINEの履歴をみると、大親友に「大丈夫っていって」と事あるごとに送っていました。
自分で唱える呪文だけではもう、どうにもならなくなっていたんです。
でも、楽しいことがあるのにがんばれない自分が情けなくて悔しくて、もっともっと頑張れ、頑張れるはずだ、やれる。
ひたすらにそれだけを考えて仕事をしました。
その結果、初めてのボーナスが口座に振り込まれた瞬間から勤務表で休みになっているところにはほぼすべて現場を入れました。
だって頑張ったから、いいよね、ご褒美だもん。と聞かれてもいない言い訳をたくさんたくさん並べて。
でも、むりくりに月に7回現場に行っても、前までのように楽しかった、がんばろーとはなりませんでした。
ひたすらに、楽しいことがあったのだから頑張らなくては、とそればかりが頭をぐるぐるしました。
夢を見ないのも、大丈夫と口にしないのも遠征している、東京にいるときだけでした。
ここまでくると仕事中に突然理由もなく涙が込み上げてきたり、うまく笑えなくなってきていました。
でも、同僚にも先輩にも偉い人にも「大丈夫」と聞かれるのが何より嫌で怖くて必死で隠していました。
泣くのはシーツが仕舞ってある倉庫で。出るときは、泣いていたことがばれないように。
それから、ひと月もしないうちに私は体調不良で会社を休みました。
1度休んだら、いけなくなることはもうずいぶん前からわかっていたので休まなかったのですが、とうとう、これは無理だと、もう働けないと、自分自身にギブアップしたのです。
夜中眠れず、その間に考えていたのはどうやってやめるか、でした。ただでさえ手が足りず、カツカツなのです。
辞めさせてなんかもらえない。
どうしたらいい、どうしたら、上の人たちに引き止められないで辞めることができる。
私は、自分の体を傷つけました。
デリケートな問題だ、50すぎのジジイたちが強く言えるはずがない。そんな浅はかな考えでした。
2日後、体の傷がばれない様に注意しながら仕事をしました。
痛かったけど、なんとかなりました。
それから2日後、行きたくない、が最高潮に達し、仕事場までのコンビニで、体を傷つける道具を買いました。
買えば、持っていれば、気が済むと思っていました。
でも、その日は自分が残業の当番で、通常の勤務すら行きたくない、だったので、結果は必然。
残業当番として職場に出るまでの30分で朝買った道具を使ってまた傷つけました。
こんなことをしてまでする仕事なのかな、どこか遠くから自分が自分に言ったけど、そうでもしないと職場で通っているキャラの、明るく、元気ないつもの私になれなかったんです。
このころは、ジャニーズ=頑張るの方程式が出来上がり、曲すら聞けませんでした。
頑張れない、頑張りたくない、でも、頑張らないといけない。
きらきらと光るのは努力からくる汗だし、立ち位置が一番前の子はその距離を這い上がってきたからだ、そう思ってジャニーズを見てきた身としては、頑張っていない今の私ではだめだったのです。
抱えきれなくなって、どうしようもなくなって、親を頼りました。
体を傷つけたことも、なにもかもぶちまけるように吐き出しました。
親と、私をよく知る知人が、病院受診をすすめ、渋々であったものの心療内科にかかりました。
そこで、自分が統合失調症であると診断され、1か月の休職が決まりました。
担当になったカウンセラーのおばさんには「すぐきてくれてよかった。傷もきれいに治るうちでよかった。ゆっくりしなさい。好きなことをしなさい」そういわれました。
余計なことは考えない、楽しいことだけ考えればいい。
そうすれば、元気になれる、と。
これが、19歳のジャニヲタ介護職員が統合失調症と診断されるまでのあらましです。
私は家族と、そして周りの人にとても恵まれていました。
会えない代わりに電話で私の泣き言をうんうんと聞いてくれた大親友。
こんな私と、真っ向から向き合って喧嘩して抱きしめてくれる母親。
エベレストより高い私のプライドを察して、何も言わないでくれる父親。
突然仕事に行かなくなった姉に、「なんで?」と聞かず、普通に接してくれる弟、妹。
自分のことのように考えてくれる知人。
深い理由を一切聞くことなく、私とたくさん遊ぶ約束をしてくれた3つ下の友達。
ずいぶん前から、辞めたっていい、休んだっていいと私の体を気遣ってくれた2つ上の友達。
文字通りたくさんの人に支えられて、私は今ここに生きています。
今は、生きていることが楽しいです。
ジャニーズの曲も映像も楽しめます。
カウンセラーのおばちゃんに言われた「長い人生でみれば、たった数か月よ。好きなことをしなさい。」の言葉で、いつのことかもしれない「これから」を悶々と考えてお金を使うことをためらっていましたがいい靴を買いました。
飛び切りいい靴は素敵な場所に連れて行ってくれるから。
そんな言葉を思い出して、これから、たくさんたくさん素敵な場所にいこうと、そう思ったら自然に笑えました。
これからどうするか、わかりません。まだなにも決めていません。
でも、とりあえずは楽しもうと思います。頑張るのは、頑張れるようになってからにします。
私がこれを書いたのは、世界中のどこかにはひょっとしたらひとりくらい自分と同じように悶々とつらいまま仕事をしている人がいるかもしれないと思ったからです。
もし、その人がこれを読んだとき、頑張らなくていいんだと、逃げたっていいんだと、思ってもらえればうれしいです。
頑張ろうは、素晴らしい心がけです。
でも、頑張らなくては、はだめです。頑張れないときは、頑張れません。それでいい。
なんて、思えないから頑張るんですけど。
でも、私みたいになる前に、体が、心が出しているブレーキサインに気づいてあげてください。
それでは、お粗末様でした。