わたしの花道

リストカットやうつ病経験からメンタルヘルスについて書いています

私は、人間です。

 

ここから先の文章は貼り付けてある2つの記事に関連しており、読んでいただかないと意味が伝わりにくい部分があると思います。

 

また、2つの記事同様に、バイオレンスな表現を用いた文章がありますので苦手な方は、どうぞ見なかったことに。

 

 

19歳のジャニヲタ介護職員が統合失調症と診断されるまで。 - わたしの花道

 

19歳のジャニヲタ介護職員が統合失調症と診断されてから。 - わたしの花道

 

 

もともと、最初の診断では1ヶ月の休職でした。

 

なので、2度目のカウンセリング後、職場の統括主任から出る話題は「勤務表」「全部休みにしておいて、出れる日に出てもらうか、逆に、勤務を入れておいて無理な日は休んでもらうか」といった、休職扱いが終わったその日から私が復帰することを前提としたものばかりでした。


休むことを前提に話す人などいない、そう言われてしまえばそうです。その時には「まだ介護現場に復帰しようとは思えません」そう伝えました。

 

そして数日前の3回目のカウンセリングでもう1ヶ月の休職が決まりました。

 

前回の統括の言葉が耳の奥で反芻し自分で勝手に休職扱いが終わる日までのカウントダウンをしてしまっており、毎日が憂鬱でとても前向きに仕事場に行こう、とは思えないとカウンセラーのおばちゃんに伝えたところ「じゃあ、診断書だしましょうかね。これがあれば会社の人、なーんにも言えないからね」と優しく笑ってくれました。

 

飲む薬は、少しだけ量が減りました。目に見える形で前に進めた、そう思いました。

 


カウンセリングが終わったら職場に連絡をいれると統括と約束していたので、休職が1ヶ月延びたこと、休職扱いが終わってしまう日をカウントダウンしてしまい、すごく憂鬱になったといったことを伝えました。

 


すると統括は「カウンセラーの人からはいつから復帰するとか話しはでてないの?」「まだ未定なの?」「仕事に対してはどう?」など、私が話したことを聞いていたのか聞いていなかったのかわからないような質問を投げかけてきました。


私は、せり上がってくるなにかをこらえながら必死に「まだ休もうとしか言われていない」「未定です」「介護現場は怖い」と正直に伝えました。

 

それに加え、私が勤めている施設のユニフォームは半袖で腕が丸見えになり「どれだけ傷が綺麗になっても、知らない人から見たらわからないくらいになっても、私には汚い腕に見える」とも伝えました。

 

それに返事ともとれるかわからないボリュームでうんうんうなったあと書類やお金関係の話を少ししました。

 

そして、「じゃあ、次にカウンセリングしたらそのときまた連絡くれる?」といい、私は、一生懸命息を吸いながら、なんとか、返事をしました。

 

 

そこから、弟をカラオケに送って行きました。そこまでは、記憶があります。

 

でも、家に帰ってきて、息がうまくできなくて、気がついたら、不燃ごみに捨てたはずのカッターを持ってトイレにいました。


なんの戸惑いもなく、私はカッターを太ももに当てました。痛かった。痛いのに、手は止まりませんでした。


日に焼けない太ももの内側は白く、柔らかく、腕よりも簡単に血が滲みました。

 


なんの涙かわからないけれど、止まりませんでした。

 

統括と話していた時にせり上がってきたものがまた上がってきて、たまらず母に電話をしました。電話では解決せず、私は逃げるように寝ました。

 

泣いているときは、心が最高潮に沈んでいるときは、死んだように眠れるのです。起きて、家事をしていた母にまた、抱きしめてもらいました。

 

上がってきていたなにかは、すっかりなりを潜めていました。

 

それから数日後、私は髪の毛をピンク色にしました。

 

職場の人の記憶にある自分から変わりたかったのです。

 

一言で言えば、変身したかった。小さい頃憧れたプリキュアのように。セーラームーンのように。変身して強くなりたかった。

 


そして、ピンクに色付いた自分の髪を見ているとき、あの時せり上がってきたものがなんだったのか気づきました。

 

「私は、車じゃない。人間だ」という、その思いに気づきました。

 

車のように走れなくなったらガソリンスタンドで給油して満タンにしてもらえば、してもらった瞬間から何キロも走れるような機械じゃないんだ、と。

 

あの時は言葉にできなかったけど、私はそれを言いたかったんだ、と。

 


わかっている口ぶりで、根本的なそこが分かっていない統括主任に悲しくて悔しくて泣いていたんだと。

 


人間にも、たしかに給油タンクはあるとおもう。

 

でも、いっぱいになるのにかかる時間も、タンクに入れる燃料も違うんだよ。タンクが壊れて、治すところからはじめなきゃの人もいるんだよ。

 

人間だから、部品みたいには取り替えられないんだよ。

 


どうして、人を使う立場のあなたがそれを、わかっていないの。

 


一番最初に休職がきまった時、統括が私にかけた言葉は「ゆっくり休んで」でした。

 

私はこの言葉であなたの下にいるのは機械ではなくて人間なんだと、わかっていると思っていました。でも全くわかっていなかった。

 

心が疲れてしまった経験のない人にわかれと言うほうが難しいのでしょうか?


私は、私たちは、生きている人間です。
あなたの家族も人間です。
あなたの先輩も部下も、会社の社長も、人間です。
取替え用の部品は、発注できません。


だから、壊れて、治すことになる前に休んでください。休ませてください。
目一杯休んで、仕事に、学校に、いこうかな、そう思えたら、動き出しましょう。

 

それでは、お粗末さまでした。

 

19歳のジャニヲタ介護職員が統合失調症と診断されてから。

ー2019・5・3、改行などの手直しー

 

ひとつ前の記事の続きです。続きというか、診断されてから、ひとつ前の記事を上げるまでの話です。

 

前回同様、バイオレンスな文章があります。苦手な方はご注意ください。

 

 

19歳のジャニヲタ介護職員が統合失調症と診断されるまで。 - わたしの花道

 

この記事が、まさかこんなにたくさんの方に読んでいただけると思っておらず、診断がなされてからいきなりまとめのような文章になってしまっているので、ブログに書くことができるようになるまでを今回書こうと思います。

 

(上に張り付けた記事とダブる部分もあります。)

 

前回の記事に対し、実に様々な意見をいただきました。

 

私を心配してくださった方、共感してくださった方。

 

ブックマークのほうでは、診断に疑問を持つ声もいただきました。

 

また、心療内科ではなく精神科のほうがいいのでは、という声もいただきました。

 

精神科に行かなかったのは私がかたくなに拒否したからです。

 

私は、そんなところに行かなくてもいい、と。ですが、親を頼った時点で夢からくる不眠、嘔気、下痢など体に不調が出ていました。

 

そこで、その症状を止める薬をもらおうと最初は内科に行きました。

 

話を聞いてくれた知人は実際に内科で鬱の諸症状を緩和する薬を出してもらい、社会復帰していました。

 

しかし、内科の先生は私を見て「きちんとしたところに行きなさい。体を傷つけているなら、私ではどうにもできないよ」と言いました。

 

この言葉で、自分が自分で思っているよりひどいことになっているんだと自覚しました。

 

でも、それでも、どうしても精神科は嫌で心療内科に行きました。

 

 

そこの先生は「あなたが若い(医学的に言われている思春期の真っただ中である)こともあって断定はすごく難しい。でも診断書を出すには病名をつけなければいけない」と。

 

診断書があれば、仕事休めるからね。ゆっくりしなさい。

 

夢を見ないで寝れるように、ちょっとだけお薬出すように相談しておくからね。

 

今日はちゃんと寝れるはずよ。私を安心させるようにカウンセラーのおばちゃんは言いました。

 

仕事に行かなくてもいい、そのことに安堵し、病名も、だされた薬も、正直どうでも(まではいかなくても)よかった。

 

 

職場の統括主任は理解があり、職場には体調不良と説明することと自分を通して以外の連絡はしないように言っておくと約束してくれました。

 

その日から、仕事をしている夢は見なくなりました。

 

相変わらず胃腸の調子はいまいちでしたが、夜中に起きない、いやな夢を見ないだけでこんなにも息がしやすいのかと自分でびっくりしました。

 

うちは共働きで日中は私一人になるので(母はずいぶん心配しましたが、大丈夫と押し切りました)隣町の図書館に行くことにしました。

 

車通勤をしていたのでマイカーも免許証も持っています。

 

本から生まれたのか、と揶揄されるくらいには活字が好きだったので興味を持ったタイトルの本を読んだり、家に転がっていた調剤薬局事務のテキストを拾ってきて勉強していました。

 

小学校から高校までの12年間、一度も楽しいと思ったことがなかった勉強するということを初めて楽しいと思いました。

 

毎日、朝の連続テレビ小説「マッサン」を見て、朝ご飯が食べれそうなら食べる。

 

そして、仕事に行く母を見送り、ゆっくり支度をして図書館に行く。

 

3時くらいには家に帰ってきて昼寝をする。起きたら食べられる分だけ夜ごはんを食べて、ドラマを見て、ケータイをいじって、薬を飲んで寝る。

 

 

おなかはすくのに食べようという気が起らず、昼は食べないかコンビニで売っているような12粒くらいはいってるチョコレート菓子をつまむ程度です。

 

(ちなみにこれを書いている今も胃腸は絶不調でトイレと結婚できそうです。)

 

最初の一週間は、こんな感じでゆるゆると過ぎていきました。

 

2月の末には、温泉旅行を決めていました。大親友に付き合ってもらって旅行を計画していたのです。

 

でも、診断書を出して逃げるように職場から帰ってきてしまったためこの1か月の休職がどのように扱われているのはわからないことに気が付きました。


「これから」どうなるかわからない。「これから」だってお金はかかる。お金がなければ、生活できません。好きなことをするにはお金がかかる。


実家暮らしで甘えているとはいえ、お金のことが気になって、こんなことならたとえ体を傷つけ続けたとしても、休む日があったとしても、仕事に行っていたほうがよかったのではないのか。


休職、しないほうがよかったのでは。

 

あの状況で、そんなことは無理だったとわかっていてもそう思ってしまいました。

 

決めていた旅行だってとてもお金のかかることです。

 

仕事をしていないのに、お金が出ていく予定ばかり・・・とへこみました。

 

お金のことを悶々抱えたまま、些細なことから母とけんかになり、私は大泣き。

 

でも仲直りも決着もつかないまま、一番下の妹の習い事の時間になってしまい、母はそちらに行かなくてなりませんでした。

 

自分の部屋で、母に対しどうしてあのような言い方しかできなかったんだろう。本当に言いたかったことは、そんなことじゃなくて。

 


へたくそな伝え方で一生懸命私に寄り添おうとした母を傷つけることしかできない自分に憤りと情けなさでいっぱいになり、休職になってから初めて、自分の体を傷つけました。

 

痛かった。何の涙かわからないまま、たくさんたくさん泣きました。

 

送り迎えから帰ってきた母とは、きちんと仲直りできました。

 

19にもなって、と思うかもしれませんが思いっきり抱きしめてもらいました。


そのあとすぐ、高校時代の友達とご飯に行く機会がありました。

 

私の現状は話さず、ただ、昔話やお互いの趣味のことを話す時間はとても楽しく、リフレッシュできた、と思っていました。そのときは。

 

友達と別れ、楽しかったはずの気持ちは、お風呂に入っているときに消滅してしまいました。

 

自分の傷だらけの体を見たからです。

 

自業自得、なんだよなぁって自嘲気味に笑うことが精一杯で。

 

私の同級生だったひとたちはみんな当たり前に自分が選んだ道で社会人なり、大学生なりとして頑張っていて、好きなことをしている。

 

わたしは、何をしているのだろう。

 

母が、きれいにきれいに産んでくれたのに。

 

私は、そのきれいだった体を自分で不良品にしている。そう思いました。

 

そのころ、友達に彼氏ができたと知って。

 

こんな不良品でみっともない私をこの先、愛してくれる人ができるのだろうか。

 

付き合うなら、結婚するなら、きれいな体のほうがいいに決まってる。

 

そんなところまで思考が飛んで、その日の夜中、また、体を傷つけました。

 

でも、悲しくて痛くて。大親友に、零しました。

 

「また切っちゃった」と。よくわからないけど、「切っちゃった」と。でも、もうやめるから、その代わりに付き合わせて申し訳ないけど、切りたくなったら、電話してもいいかと聞きました。

 

大親友はそれで気がまぎれるなら。出れないときもあるけど体を傷つけなくて済むなら、と快諾してくれました。

 

悶々と抱えていたお金のことは

 

「定期、崩せばいいじゃない。頑張れるようになったら、また貯めればいい。頑張れるようになるために使ってなにが悪いの。」

 

という母の言葉でためたお金を使う、ということをためらっていましたが、やめました。

 

2回目のカウンセリングでお金のこと、「これから」のことを話したら「長い長い人生の、ほんの一瞬よ。今は休憩。ほしいものがあったら買いなさい。働けるようになったら、今使った分を貯めればいいのよ」と。

 

母も「ボーナス出たときに貯金した6万だってあるんだから。遊べばいいじゃない」と。

 

その言葉でずっと控えていた春物の服を買いました。

 

上記ブログにも書いた、いい靴も買いました。

 

これを着て、これを履いて、たくさんたくさん遊ぼう。素敵な場所に行こう。「これから」はその時が来るまで考えない。

 

そして、カウンセリングの最後にひとつの約束をしました。

 

自分の体を傷つけるための道具を自分で捨てる、と。

 

カウンセラーのおばちゃんは「今ならね、綺麗に治るから。半袖だって着れるくらいに」私の傷をなでながらそう言いました。

 

家に帰って、仕事用のカバンの中に無造作に放ってあったカッターを不燃ごみへ捨てました。

 

私は、私のことがあんまり好きじゃないけど、両親は、大親友は、友達は、そしてツイッターにいるジャニーズを通して仲良くしてくださっている人たちは、私のことを好きだと言ってくれる。

 

もう、傷ものだけど、これ以上はやめよう、と。

 

カッターを捨ててから、お風呂で自分の体を見ても「やれやれ、はやく薄くなるといいな」くらいにしか思わなくなりました。

 

そして、自分が経験した事を書こうと思ったのです。

 

これが、診断されてから、ブログを書くまでにあったことです。

 

気分の波があるので、元気な日、そうじゃない日、あります。

 

でも、自分にあったことを言葉にできるくらいまでには、元気になりました。


新しく買った春物のブルゾンを着て、新品の口紅をひいて、図書館に行った日に職場から電話があり、休職明けからどうするか聞かれ、テンションどん底になったこともありました。

 

でも、まだ働こう、という気分にはならないから、すみませんがここで返事はできない、と言い切ることができました。

 

甘えと言われればそれまでですが、以前、仕事をしていた時は残業も、勤務変更も「できます」「大丈夫です」としか言えず、断れなかった自分からすれば成長かな、とも思います。

 

 

あと2週間は休職期間なのでやりたいと思ったことは全部やろうと思います。

 


いま考えているのは高校時代に取り損ねた秘書検定の準1級の勉強をしようかなというのと眼鏡を新調しちゃおうかな、です。

 

眼鏡は働いていたころに手が出るおばあちゃんに思いっきりはたかれて以来少し歪んでしまっているのです。デザインが気に入っていてなんとなくそのまま来てしまったので、思い切って一番新しいものを買っちゃおうかな、なんて。


この記事、そして、ひとつ前の記事を読んでくださったたくさんの方々に感謝します。

 

考えるきっかけになれば、逃げていいんだと思うきっかけになれば、それ以上にうれしいことはありません。

 

こんなに弱く、みっともない私ですが、生きています。

 

楽しいと、笑えています。


どうか、私のようになるまえに。みなさんが抱える問題が軽くなりますように。

 

そして、滅びろストレス社会。

 

お粗末さまでした。

 

 

 

19歳のジャニヲタ介護職員が統合失調症と診断されるまで。

 ー2019・5・3、改行などの手直しー

 

いつも以上に独り言です。そしてバイオレンス?な表現というか文章があります。苦手な方は見なかったことに。

 

もし、ジャニヲタであってもそうでなくてもこの記事を読んでなんとなく思い当るところがある人、思い当たるところがある人が近くにいる人、なんでもいいです。

 

行動を。ひどくなる前に。そして、ストレス社会よ滅びろ。

 

  

私にとってジャニーズは楽しみであり、ご褒美です。

 

高校時代からバイトをし、自分で貯めたお金でチケットの振り込みをし、交通手段を確保し、グッズを買っていました。

 

クソDDを自覚していたので各グループのリリースや現場の振り込みが重なったときはそれこそ鬼のようにバイトをしました。

 

そうして手に入れたお金を使うことが快感であり、なによりのストレス発散でした。

 

 

そのスタンスは高校卒業後、介護職を選び社会人になっても変わりません。

 

むしろ動かせるお金が増えたことで3か月に1回程度の遠征が毎月になりました。

 

仕事は体力勝負。介護ど素人の私は、いわば見て覚える、やって覚えるの連続です。

 

目まぐるしい毎日、不規則な勤務形態、でも、月に1度東京に行って現場に入れると思えば、どうってことはなかったのです。

 

 

頑張りがいのある仕事、現場という楽しみ。貯金は定期で組んでいる3万がある。

 

余裕はないけど、それなりに充実した社会人生活、のはずでした。

 

 

こういう仕事柄、人の死はつきものです。

 

大好きだったおばあちゃんが自分の休みの間に息を引き取った。

 

遠征のために連休をもらったら救急搬送されて病院で亡くなった。

 

昨日いた人なのに、今日出勤したらいなかった。

 

目の前でストレッチャーで運ばれていった。

 

そのたびに、後悔しないように頑張ろう、頑張ろうと自分を励ましました。

 

 

仕事を初めて半年ほど、夜勤がスタートしました。

 

通しでなく、昼から夜中までと夜中から昼までの半分の夜勤です。任されるまでに成長した自分がうれしかった。

 

 

でも、あとから思えば、このあたりからジャニーズに一度に使う金額が増えていました。

 

そして、「がんばれ私」という言葉。

 

冗談のようなトーンでそう呟きだしたのもこのころからでした。

 

万年人手不足の介護業界、効率よさが求められる中で、自分で自分を励まさないと、やってられなかったのです。

 

でも、頑張った先には1か月待ちに待った現場がある。

 

羽を伸ばせるのはもうすぐそこだ、さあ頑張ろう。

 

気合を入れて仕事に向かっていました。このころ遠征はすべて泊りで組んでいたので、2日分の休みをもらうということは当然前後の仕事は連勤になりしんどいのです。

 

夜中の11時に家につき、次の日が早番で朝の7時から仕事、だなんてこともざらにありました。

 

でも、次からの勤務がどれだけしんどいものでも東京に行かない、現場をひとつ減らす、という選択肢はありませんでした。

 

ジャニーズにお金を使うこと、それが楽しみで、それがあるから正直やってられん、と思うような勤務を組まれても頑張れたのです。

 

 

でも、いつからか、ジャニーズで楽しい思いをしているのだから頑張らなくてはいけない、と思うようになっていました。

 

先週東京に行って楽しかったのだから残業だろうが早番だろうが、きちんと頑張るべきだ、と。

 

あることがきっかけ(利用者さんのことに関するので伏せますが)で夜勤前になると必ず見ていた夢がありました。

 

このころ、その夢をほぼ毎日見るようになっていました。

 

夢の内容についても伏せますが、ざっくりいうと私は夢の中でも仕事をしていました。

 

寝たのか、寝てないのかすら曖昧で、でも、出勤日だから仕事に行かなければ。

 

仕事をしなければ。来月も再来月も現場はある。

 

楽しいことが待っている。私ならできる。大丈夫。

 

通勤中、爆音で流れるジャニーズメドレーのなかで。

 

休憩中ひとりきりのトイレで。そう呪文のように唱えて。

 

笑顔を張り付けて仕事をしました。

 

 

そのころのLINEの履歴をみると、大親友に「大丈夫っていって」と事あるごとに送っていました。

 

自分で唱える呪文だけではもう、どうにもならなくなっていたんです。

 

でも、楽しいことがあるのにがんばれない自分が情けなくて悔しくて、もっともっと頑張れ、頑張れるはずだ、やれる。

 

ひたすらにそれだけを考えて仕事をしました。

 

 

その結果、初めてのボーナスが口座に振り込まれた瞬間から勤務表で休みになっているところにはほぼすべて現場を入れました。

 

だって頑張ったから、いいよね、ご褒美だもん。と聞かれてもいない言い訳をたくさんたくさん並べて。

 

 

でも、むりくりに月に7回現場に行っても、前までのように楽しかった、がんばろーとはなりませんでした。

 

ひたすらに、楽しいことがあったのだから頑張らなくては、とそればかりが頭をぐるぐるしました。

 

夢を見ないのも、大丈夫と口にしないのも遠征している、東京にいるときだけでした。

 

ここまでくると仕事中に突然理由もなく涙が込み上げてきたり、うまく笑えなくなってきていました。

 

でも、同僚にも先輩にも偉い人にも「大丈夫」と聞かれるのが何より嫌で怖くて必死で隠していました。

 

泣くのはシーツが仕舞ってある倉庫で。出るときは、泣いていたことがばれないように。

 

それから、ひと月もしないうちに私は体調不良で会社を休みました。

 

1度休んだら、いけなくなることはもうずいぶん前からわかっていたので休まなかったのですが、とうとう、これは無理だと、もう働けないと、自分自身にギブアップしたのです。

 

夜中眠れず、その間に考えていたのはどうやってやめるか、でした。ただでさえ手が足りず、カツカツなのです。

 

辞めさせてなんかもらえない。

 


どうしたらいい、どうしたら、上の人たちに引き止められないで辞めることができる。

 

私は、自分の体を傷つけました。

 

デリケートな問題だ、50すぎのジジイたちが強く言えるはずがない。そんな浅はかな考えでした。

 


2日後、体の傷がばれない様に注意しながら仕事をしました。

 

痛かったけど、なんとかなりました。

 


それから2日後、行きたくない、が最高潮に達し、仕事場までのコンビニで、体を傷つける道具を買いました。

 

買えば、持っていれば、気が済むと思っていました。

 

でも、その日は自分が残業の当番で、通常の勤務すら行きたくない、だったので、結果は必然。

 

残業当番として職場に出るまでの30分で朝買った道具を使ってまた傷つけました。

 

こんなことをしてまでする仕事なのかな、どこか遠くから自分が自分に言ったけど、そうでもしないと職場で通っているキャラの、明るく、元気ないつもの私になれなかったんです。

 


このころは、ジャニーズ=頑張るの方程式が出来上がり、曲すら聞けませんでした。

 

頑張れない、頑張りたくない、でも、頑張らないといけない。


きらきらと光るのは努力からくる汗だし、立ち位置が一番前の子はその距離を這い上がってきたからだ、そう思ってジャニーズを見てきた身としては、頑張っていない今の私ではだめだったのです。

 


抱えきれなくなって、どうしようもなくなって、親を頼りました。

 

体を傷つけたことも、なにもかもぶちまけるように吐き出しました。

 


親と、私をよく知る知人が、病院受診をすすめ、渋々であったものの心療内科にかかりました。


そこで、自分が統合失調症であると診断され、1か月の休職が決まりました。

 

担当になったカウンセラーのおばさんには「すぐきてくれてよかった。傷もきれいに治るうちでよかった。ゆっくりしなさい。好きなことをしなさい」そういわれました。

 

余計なことは考えない、楽しいことだけ考えればいい。
そうすれば、元気になれる、と。


これが、19歳のジャニヲタ介護職員が統合失調症と診断されるまでのあらましです。

 

 

私は家族と、そして周りの人にとても恵まれていました。

 

会えない代わりに電話で私の泣き言をうんうんと聞いてくれた大親友。

 

こんな私と、真っ向から向き合って喧嘩して抱きしめてくれる母親。

 

エベレストより高い私のプライドを察して、何も言わないでくれる父親。

 

突然仕事に行かなくなった姉に、「なんで?」と聞かず、普通に接してくれる弟、妹。

 

自分のことのように考えてくれる知人。

 

深い理由を一切聞くことなく、私とたくさん遊ぶ約束をしてくれた3つ下の友達。

 

ずいぶん前から、辞めたっていい、休んだっていいと私の体を気遣ってくれた2つ上の友達。

 

 

文字通りたくさんの人に支えられて、私は今ここに生きています。

 


今は、生きていることが楽しいです。

 

 

ジャニーズの曲も映像も楽しめます。

 

カウンセラーのおばちゃんに言われた「長い人生でみれば、たった数か月よ。好きなことをしなさい。」の言葉で、いつのことかもしれない「これから」を悶々と考えてお金を使うことをためらっていましたがいい靴を買いました。

 

飛び切りいい靴は素敵な場所に連れて行ってくれるから。

 

そんな言葉を思い出して、これから、たくさんたくさん素敵な場所にいこうと、そう思ったら自然に笑えました。

 

 

これからどうするか、わかりません。まだなにも決めていません。

 


でも、とりあえずは楽しもうと思います。頑張るのは、頑張れるようになってからにします。


私がこれを書いたのは、世界中のどこかにはひょっとしたらひとりくらい自分と同じように悶々とつらいまま仕事をしている人がいるかもしれないと思ったからです。

 


もし、その人がこれを読んだとき、頑張らなくていいんだと、逃げたっていいんだと、思ってもらえればうれしいです。


頑張ろうは、素晴らしい心がけです。

 

でも、頑張らなくては、はだめです。頑張れないときは、頑張れません。それでいい。


なんて、思えないから頑張るんですけど。

 

でも、私みたいになる前に、体が、心が出しているブレーキサインに気づいてあげてください。


それでは、お粗末様でした。